週刊「水」ニュース・レポート    2016年5月25日号

 

 

 

【今回厳選したニュース・レポート】

 

  • 「上善如水ー『水』のような生き方が必要な時代になったのではないか」
  • (アクアスフィア 橋本淳司)

 


ぼくは書籍などにサインを求められたとき、「何か一言」と言われると、「上善如水」と書いています。

「お酒ですか?」

「いえ、老子です」

「老子?」

講演会後のサイン会などではあまり時間がなく、その先をお話できないので、今日は「最上の善なるあり方は水のようなものだ」という老子の考えを紹介したいと思います。ぼくはこの考え方が以前から好きで、自分の活動を続ける支えになっていますし、いま多くの人に知ってほしいと思っています。

老子は、いまから2500年前の中国、春秋時代の終わり頃に活躍したとされる思想家です。「無為自然」を説く道家思想の祖。「無為自然」というと「とにかく何もやらないほうがいいよ」という世捨て人的な感覚されることがありますが、そうではありません。

老子における「道」とは、人としてのあり方を示してはいますが、それよりも、天地や万物が生み出される根本的な原理という大きな意味を示しています。人間社会のことだけでなく、はるか宇宙に至るまで、ありとあらゆる物の生成や存在が道によっていると考えました。

ですから、「無為自然」とは、意図や意思、主観を捨て去って、天地自然の働きに身を任せて生きることを示しています。

老子には全編通じて、「多くを求めることなく、作為的なことは行わず、他人と争うことなく、あるがままに生きよ」といったことが書いてありますが、それは人間社会のなかでの生き方論を超えて、自然界のなかでの人間の有り様を教えてくれているのです。

その老子が、理想世界である道のあり方として、水を賞賛し、水の性質を人の生き方に結びつけています。

それが冒頭の「上善如水」です。

「上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に畿し」

水は大地に恵みを与えて作物を育てたり、人々の喉を潤したりと、さまざまな利益を私たちに与えてくれます。川を流れる水は、岩にぶつかると、しなやかに方向を変えながら流れていきます。そして最終的には人の嫌がる低い場所に落ち着きます。そうした水の様子を見て、老子は「何事にもあらがうことなく生きるものの象徴」ととらえました。

あらゆる争いを避け、低いところに留まるという生き方は、見方によっては、ベタ降りの人生とうつるかもしれません。でもそれは人間社会という枠組みで考えた場合です。

老子は水のもつ力を次のように書いています。

「天下に水より柔弱なるはなし。しかも堅強を攻むる者、これによく勝るなきは、その以て之を易うる無きを以てなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下、知らざるなくして、よく行うなし」

水はしなやかで柔かそうに見えますが、重くて堅いものを動かす力をもっています。しかも打っても破れず、刺しても傷つかず、切っても断たれず、燃やしても燃えないという性質で、あるいは川の流れをどんなに変えようとしても下のほうに流れることはかわりません。弱いものが強いものに勝ち、やわらかいものが堅いものに勝つ。そのことは誰もが知っているはずですが、大抵の人は、単なる強さに価値をおいているので、行うことができません。

地震、干ばつ、豪雨・洪水など災害が、地球のあちこちで頻繁に起こるようになり、それを国土強靭化という堅牢な鎧を纏うような方法で備えようとしています。

ですが、もし老子だったらどのように考えるでしょう。

たとえば、温暖化対策、温暖化対応策は急務です。昨年「パリ協定」でゼロ炭素社会への移行に合意、外部不経済を内部化するためのツールである「自然資本プロトコル」のドラフトが公開されましたし、国連では2030年に向けての地球社会全体の目標である「持続可能な開発目標」への合意も図られ、新しい時代のルールが明確になりました。

今年は2030年、そして2050年へ向けて、真に持続可能な社会への出発の年となるでしょう。伊勢志摩サミットでもこれは大きなテーマとなっています。

今年きちんとした一歩を踏み出すことがとても大切なのだと思います。

では、具体的に何が必要なのか。

老子は、欲望を抑え、自己主張をせず、他人にへりくだることを勧めています。こうした「無為自然」「譲る」「退く」という思想は、つまるところ隠遁、隠棲の境地になってしまうと批判されることがあります。人は家族や世間を捨てて深山幽谷のなかで独り暮らすわけではありません。現実を生きていかなくてはなりません。

しかし、老子は「世捨て人の思想」というわけではありません。

老子は「理想の国家像」として「小国寡民」と説いています。

小さな国、小さな住民ということで、グローバルではなくローカルな暮らし、地域コミュニティーを大切にする暮らしということではないかと思います。

老子によると、その小さな国の住民は、あれこれの道具は使わず、船や車には乗らず、武器は使わず、食事や衣服にも住居にも満足している。要するに、生活を楽しみ、余計な欲望を抱かないということなのです。

自然を貪り、大量に消費し、経済成長を追い求める暮らしによって私たちは本当に幸せになったのか。

こんな話があります。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していました。

メキシコ人の漁師が小さな網に魚を採ってきました。その魚はなんともイキがいいものでした。

それを見たアメリカ人旅行者は、「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの?」と尋ねました。

すると漁師は、「そんなに長い時間じゃないよ」と答えました。

旅行者が「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。惜しいなあ」と言うと、漁師は、「自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だ」と言いました。

「それじゃあ、余った時間でいったい何をするの?」と旅行者が聞くと、漁師は、「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタ(昼寝)して。夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって……ああ、これでもう一日終わりだね」

すると、旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。

「ビジネススクールでMBAを取得した人間として、君にアドバイスしよう。いいかい、君は毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それで余った魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を二隻、三隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら、仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃には、君はこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、それからロサンゼルス、さらにはニューヨークへと進出していくだろう。君はマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮を取るんだ」

漁師は尋ねました。

「そうなるまでにどれくらいかかるのかね?」

「20年、いやおそらく25年でそこまで行くね」

「それからどうなるの?」

「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」と旅行者はにんまりと笑い、「今度は株を売却して、君は億万長者になるのさ」

「それで?」

「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタしてすごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたってすごすんだ。どうだい! すばらしいだろう!」

持続可能な社会などと言うと小難しく聞こえますが、それは老子のいう「足を知る」に近しいものではないでしょうか。すでに実践している人もいるでしょう。

ですが、本当に足を知る経済について知ってほしいのは、むやみやたらと経済成長を推し進めようとる為政者たちなのです。

そもそも老子の思想は、強者、あるいは強者たらんとする人に対する訓戒を第一義とするものだからです。