週刊「水」ニュース・レポート    2016年8月17日号

 

 

 

【今回厳選したニュース・レポート】

 

  • 「日本最大の遊水地と私たちの暮らしの関係 渡良瀬遊水池の誕生と変遷」
  • (アクアスフィア 橋本淳司)

 


時間があると地元にある渡良瀬(わたらせ)遊水地を歩きます。時折すれ違う観光客と思しき人たちからは「何もないのんびりとした風景だね。心癒されるよ」などと言われます。

一面に広がるヨシ原、そこをすみかとする鳥の声、ヨシ原に立ちこめる雲海のような朝霧、湖面に反射する夕日、群青色の富士山の影。時とともに変化する風景にカメラマンは何度もシャッターを切ります。

毎年3月になると、春の訪れを告げるヨシ焼きが行われ、土手には各地のナンバープレートが並びます。ヨシ原のあちこちで火が放たれると歓声が上がり、パチパチという音とともにオレンジ色に覆われるヨシ原に人々は釘付けになります。

ここは日本最大の遊水地で面積は3300ヘクタール。東京都千代田区が1100ヘクタールですから3つ分。東京都内を走る山の手線内の南半分(中央線以南)の面積にも匹敵します。

周辺を車で走るとカーナビの住所表示が猫の目のように変わります。

遊水池は茨城県古河市、栃木県栃木市・小山市・野木町、群馬県板倉町、埼玉県加須市にまたがり、近くには群馬、栃木、埼玉の県境(全国的に珍しい平地の3県境)があることから「境界マニア」といわれる人たちも訪れます。

では、日本最大の遊水地はどのように生まれたのでしょうか。

いくつかのパンフレットには「治水・利水を目的に整備された」と記されていますが、それだけではありません。

いまから110年前の1906(明治39)年まで、ここには栃木県下都賀郡谷中村がありました。1898(明治31)年の「日本帝国人口統計」によると、谷中村の人口は2534人、住戸数377戸。渡良瀬川・思(おもい)川・巴波(うずま)川の水が集まり、しばしば洪水に襲われましたが、その反面、土地が肥沃で稲作が盛んだったようです。

渡良瀬川の治水事業は江戸時代から課題であり、為政者は住民の暮らしの安定と年貢確保のために水源涵養林の保護・育成に力を注ぎました。それでも3〜5年に一度は洪水があったとされています。

しかし、水害と洪水は分けて考えられていました。

水害とは、堤防や家屋が破壊され、人や家畜に被害をもたらすもの。

一方洪水は堤防を分水して田畑に冠水し、それによって堤防、家屋、人、家畜の被害を防ぐ調整機能をもつものです。

3〜5年に一度の洪水は、水源地帯の山林に堆積した腐葉土・游泥などの天然肥料を水田に運び、たとえ農作物に若干の被害はあっても農民は喜んだと伝えられています。天然の肥料によって二〜三年は施肥の必要がなくなり、当年の農作物の被害は魚獲によって補うことができました。洪水によって魚類がおびただしく増えたからです。

 

谷中村の運命を暗転させたのは渡良瀬川上流にある足尾銅山からの鉱毒です。

足尾銅山は1610年に発見されてから1983(昭和58)年まで400年近く続きました。明治維新から10年後、西南戦争のあった1877(明治10)年に古河市兵衛に経営が移り、新しい大鉱脈が見つかると、政府の富国強兵政策とあいまって銅の生産量は急速に伸び、20世紀初頭には日本の銅産出量の四分の一を担う東アジア最大の鉱山になりました。

当時の足尾は空前絶後の好景気に沸きました。銅山で働く鉱夫の電気料金は会社持ち、住宅費もタダ同然、本山から通洞にかけての道路には店が立ち並び、夜になると提灯灯りの下で客を呼ぶ女、酔っ払った男で賑わったといいます。

しかし、銅の精製時に発生する亜硫酸ガスと鉱毒により、付近の環境は大打撃を受けました。鉱毒による被害は、1885(明治18)年、アユの大量死という形で表面化しました。自由民権運動の初期に活躍した『朝野新聞』(同年8月12日)にそのことが記されています。

「香魚皆無 栃木県足利町の南方を流るゝ渡良瀬川は如何なる故にや春来香魚少なく人々不審に思ひ居りしに本月6日より7日に至り夥多の香魚は悉く疲労して游泳する能はず 或は深渕に潜み或は浅瀬に浮び又は死して流るゝもの尠なからず 人々争ひて之を得むとて網又は狭網を用ひて之を捕へ多きは12貫目少なきも数百尾を下らず小児と雖でも数十尾を捕ふるに至り 漁業者は之を見て今年は最早是れにて鮎漁は皆無ならんと嘆息し居れり 斯ることは当地に於て未曽有のことなれば人々皆足尾銅山より丹礬の気の流出せしに因るならんと評し合へりとぞ」

丹礬とは硫酸塩鉱物のこと。アユ大量死の原因を足尾銅山の鉱毒だと示唆しているわけですが、このときはまだ「一時的な異変」と捉えていたようです。

実際には、問題が表面化する以前から、鉱毒は水だけでなく、着実に土壌を蝕んでいました。

鉱毒の影響で上流部の山林は少しずつ荒れていきました。同時に、製錬に使用する木炭原料、薪木、一般用材、坑内の支柱用材としても山林の乱伐が進み、禿山となった山体からは雨のたびに大量の土砂が流出しました。土砂は下流部に堆積し、大規模な天井川を形成し、大雨の度に氾濫を繰り返しました。

 

とりわけ1890(明治23)年8月23日の大水害は、渡良瀬川沿岸一帯の農地を襲い、いっきょに鉱毒被害を顕在化させました。

渡良瀬川は、群馬県沼田市と栃木県日光市の県境にある皇海(すいかい)山(2143メートル)に源を発し、いくつもの渓流を合わせながら、みどり市で南東へ向きを変え、桐生市、足利市、太田市、佐野市、館林市、栃木市を通り、茨城県古河市と埼玉県加須市の境界で利根川本流へと注いでいます(地名はいずれも現在のもの)。

流路延長107・6キロは利根川の支流のなかでは鬼怒川、小貝川に続いて3番目、流域面積2602平方キロは利根川の支流のなかで最大です。当時、一帯の田んぼは渡良瀬川から取水しており、また、足尾からの土砂も流入していました。ここで稲が立ち枯れるという被害が続出しました。

農民は蜂起しました。

このとき農民運動の中心となったのが田中正造です。

田中正造は帝国議会でこの問題を取り上げるとともに、鉱毒被害の救済に奔走しました。1901(明治34)年には議員を辞職し、明治天皇に直訴(未遂)。その後も被害者とともに、政府の計画によって廃村の危機にあった谷中村に住みながら反対運動を続けました。農民の鉱毒反対運動が盛り上がると、1905(明治38)年、政府は谷中村全域を買収し、鉱毒を沈殿させる遊水池を作る計画を立て、翌年実行されました。

こうして現在の渡良瀬遊水池が誕生したのです。

田中正造は、鉱毒反対運動の中心地だった谷中村を廃村にすることで、運動の弱体化を狙ったと指摘しています。

 

足尾鉱毒事件は公害問題の原点といわれます。

被害の範囲は、渡良瀬川流域だけに止まらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大しました。

そして、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加し、1971(昭和46)年に収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止されました。村もなくなり、人もいなくなりました。谷中村以外にも、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となり、同村に隣接する久蔵村、仁田元村も前後して廃村になりました。1899(明治32)年の群馬・栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計1064人とされます。

足尾鉱毒事件で、なぜ被害者であるはずの農民の権利がことごとく無視されていったのでしょうか。

その背景には富国強兵政策がありました。

1894(明治27)年に起きた日清戦争は、近代日本史上、最初の外戦での勝利でした。

国民感情は戦争、軍備拡大に肯定的になっていきました。

軍備拡大には鉄鋼生産の増強が必要でしたが、当時、鉄鋼は需要の約二〇分の一の生産量しかなく、輸入に頼らざるをえませんでした。そうした状況のなかで鉄鋼をはじめとする軍備・工場設備等の輸入は、銅の輸出と引き換えでした。

銅生産のもつ意味は極めて重要であり、被害者である地元農民の存在は、帝国主義のなかで矮小化されていきました。環境問題は経済成長や戦争の元ではまったく無視されます。原発然り、リニア然り。「何もないのんびりとした風景」の背景にある歴史を考えながら、現代を生きる私たちは大いに学ばなければならないと思います。

 

現在の渡良瀬遊水池を歩いてみると、第一調整池には普段から水がありますが、第二調整池、第三調整池は湿原、草原で一帯は希少動物の住処です。

しかし、大雨で川の水が急増すると、その一部を貯めて下流に流れる量を少なくする役割を持っています。

昨年9月の豪雨の際は、大量の濁流が流れ込みました。渡良瀬遊水地の貯水容量は東京ドーム140杯分に当たる約1億700万トン。そこが8割程度、満たされました。

もしここで水を蓄えていなかったら、利根川の水量が増加し、下流域の被害が大きくなっていたことでしょう。

渡良瀬遊水池はこれまでも何度か水害を防ぐ調整池として機能してきました。

1949(昭和22)年、関東全体で1100人の犠牲者が出た「カスリーン台風」でも首都の被害の低減に役割を果たしました。

その反面、一帯には大きな被害が出たため、洪水のたびに貯水容量を増やしてきました。

実際、昨年9月にも、遊水地近くでは浸水被害が広がりました。

栃木市西前原地区では、30戸のほとんどの家や農地が浸水し、発生から1週間後も、水が引かない状態が続きました。渡良瀬遊水地周辺では、特殊な排水の方法をとっています。通常、周辺地域の川や排水路の水は、そのまま遊水地へと流れます。大雨などで、遊水地の水位が上昇した場合には、地域からの水が遊水地に流れなくなるため、ポンプで、強制的に排水してきました。

ところがポンプ室が浸水し、電気設備が漏電したことが原因で、遊水地の周辺にある6つの排水機場のうち、3か所が停止しました。このために水があふれたのです。こうした新たな災害リスクにどう向き合うか。遊水地周辺の栃木市、小山市などは、渡良瀬遊水地の排水機能の強化を国に求め、農林水産省は、2016年度からの対策工事の費用を概算要求に盛り込む方針です。

渡良瀬遊水池は、2012(平成24)年7月3日、ラムサール条約湿地に登録されました。

ラムサール条約の正式名は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」で、国境を越えて行き来する水鳥のほか、生物の生態系に重要な湿地の保全などを国際間で協力していこうという取り組みです。1971(昭和46)年、イランのラムサールで開かれた国際会議で条約が決まったために一般的にこう呼ばれます。

しかし、登録により池の容量を増やしたり維持したりする工事ができなくなり、容量が制限されるのではという懸念が周辺住民に根強く残っていました。そこで国交省と環境省が連携し、治水機能維持が目的の河川法と環境保護目的の鳥獣保護法を同時に適用し、治水と保護の両立を確約。住民説明会を数回開いて理解を求め、登録となりました。

渡良瀬遊水池は、本州以南最大の湿地に絶滅危惧種183種を含む多くの動植物が生息・生育する生命のゆりかごです。

植物では、広大なヨシ原、河川の氾濫原を生育環境とするタチスミレ、トネハナヤスリ、ノウルシなどの希少種約60種、そのほかにも渡良瀬遊水地で発見され「渡良瀬」の名前を冠するワタラセツリフネソウなど約1000種類が生育しています。

野鳥は約250種類が生息しています。

これは日本で確認された野鳥の種類の約半分と言われ、環境省レッドリストで絶滅危惧㈵B種とされるチュウヒの越冬地になるほか、オオセッカやオオヨシキリなどが生育します。昆虫は、ワタラセハンミョウモドキやオオモノサシトンボなど62種類の国指定絶滅危惧種を含む約1700種類が生育します。

ラムサール条約における「湿地」という言葉の定義は「常時あるいは季節的に、水をたっぷりと含む土地、あるいは水に覆われる土地」です。

2015(平成27)年4月現在、ラムサール条約に登録されている湿地は全世界で2100か所以上あり、総面積は約2億800万ヘクタールとメキシコの面積を若干超える広さになっています。

しかし、湿地は近年、急速に消えています。

最近の推計では、1900年以来、世界の湿地の64%以上が失われたとされています。日本でも明治・大正時代には約2110平方キロメートルあった湿地が、現在では約800平方キロメートルに減ったとされています。消滅した湿地は琵琶湖2つ分ほどになります。

湿地が失われた原因は、土地利用の変化(農地と放牧地の増加)、ダム、水路、運河による水の流れの変化、インフラ開発(都市や川の流域、沿岸部における開発)などが原因です。

実は渡良瀬遊水池にもインフラ開発の波が押し寄せたことがあります。

1990(平成2)年の夏、畑和埼玉県知事(当時)が「渡良瀬遊水地に国際空港を」と発言しました。

群馬・茨城両県知事が賛意を表明し、参議院運輸委員会でも取り上げられ、国は遊水地を含めて4ヵ所について600万円の調査費を計上しました。

茨城県古河市と栃木県藤岡町(現栃木市)では議会として、「空港化反対」決議を行ないました。

地元でも反対運動が起きました。

やがてバブル経済が崩壊し、計画は立ち消えとなりました。もしあと数年バブル経済が続いていたら、渡良瀬遊水池はなくなっていたかもしれません。

そのほかにも渡良瀬遊水地アクリメーションランド構想というものがあり、ゴルフ場、オートキャンプ場などを設置した大型公園にする計画がありました。しかし、こちらも反対運動やバブル景気の終了により、複数のゴルフ場と野球場・テニスコートなどの運動場は整備されたもののオートキャンプ場などは着工されませんでした。

人々はしばしば湿地を不用の地と見なします。平時には「何もないところ」でしかないからです。だから焼き払い、水を抜き、埋め立て、別の用途に使おうと考えます。

ですが、湿地は私たちの生活にとって必要不可欠です。

まず、湿地は私たちにとって重要な淡水の供給源です。地下の帯水層にも水を補給します。アジアでは約20億人、ヨーロッパでは約3億8000万人の人々が、地下水で生活しています。そして食糧供給源でもあります。

市場に出回る魚のほとんどは、一生のうちの一定期間を沿岸の湿地ですごしますし、湿地の一種である水田で栽培される米は、世界で30億人の主食です。汚れた水を浄化する働きもあります。湿地にはたくさんの微生物群集がすみ、植物が生えています。これらの生物は水のなかの有機物を分解したり、水のなかの二酸化炭素を吸収し酸素を供給する役割を果たします。干潟や川の底の土壌にもたくさんの生物群集がすみ、家庭、農地、工場から出た汚染物質を分解してくれます。

さらに、これまでの治水対策は河川区域だけに注目して行われてきました。

水をコンクリートで制圧しようとした結果、洪水流量がかえって増え、さらに大規模な治水計画を立てるという「いたちごっこ」を繰り返すはめになりました。この考え方で「安全な暮らし」を追求しようとすると、限りなく堤防を高くし、ダムをつくり続けなければなりません。今後ますます激しくなる気候変動にともなう水害や渇水に、従来のやり方だけで対応するのは技術面、コスト面でむずかしいでしょう。

そこで河川だけではなく、流域全体に視野を広げた治水対策が必要になってきます。

自然の緩衝材としての湿地は、自然界のスポンジのような働きで降った雨を吸収し、表面に広く水をため、河川の氾濫を抑えます。「何もないのんびりとした風景」は母親のような包容力で私たち人間だけでなく、多くのいきものを守ってくれています。